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文学のこみちは途中で千光寺の敷地内に入るのでいくつかの石碑も敷地内に点在しています。その中の一つ瘞紅の碑の前には鐘楼があり、ここからの眺めも絶景です。

 
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頼山陽
 広島県竹原市の人、「日本外史」「日政記」などを著わし、明治維新の大業成就に寄与したところは大なるものがあった。尾道には文雅の友も多く、度々来遊したが、この詩は、文政十二年、千光寺山に登ったときの作である。

 
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陣幕久五郎
 島根県の人、力士を志して尾道に出久保町の初汐久五郎の弟子となったが、その人物を見込まれて養子となり、江戸に下って角力道に精進し、ついに十二代横綱となった。その人格も高潔で、引退後は社会事情にもつくした。また、下に彫ったのは陣幕の手形で、その原型は養家の室谷家に現存している。

 
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菅茶山
 広島県神辺の人、私塾「黄葉夕陽村舎」を開き(後に廉塾ともいう)福山候の知遇を得て、廉塾の名は一世に高く、頼山陽もここに学んだことがあった。この時は、寛政五年、四十六才のとき、鼓岩に登った際の長誌の一節である。

(鼓岩に刻まれた茶山の歌ですが、その向うに見えている建物が当千光寺山荘です。)

 
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小杉放庵
 画家、本名国太郎、日光に生まれた。初めは未醒と号し、大正二年外遊、帰国後、再興日本美術院同人となり二科会に参加し、次いで春陽会を組織した。絵は和洋を兼ねて一種の仙骨を帯び、和歌にも秀でていた。この歌は終戦後、尾道来遊の時の作品。

 
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 作者の名も伝わらない、この古歌は玉の浦即ち尾道のみなとをうたった歌としてふるくから人々の間に愛誦されている。

 
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吉井勇
 東京の人、昭和十一年、五十一才のとき、四国路、中国路、瀬戸内に歌行脚を試みたが、その途中、尾道を訪れて浄土寺や千光寺に詣でたときの一首。

 
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 いつの頃、誰が作ったともわからないが、みなと尾道でうたわれつづけてきた俚謡の一つである。千光寺の時の鐘は尾道に生れ育ったものにとってはどこにいても忘れられないものといわれる。沖合遥に働いていた船人もこの鐘の音を聞いて港に急いでいたことであろう。

 
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中村憲吉
 広島県双三郡野村の人、アララギ派の歌人で、その作風は近代歌人中特異な存在であった。後年、病魔におかされ、千光寺山の中腹で病を養っていたが、昭和九年、四十六才で他界した。

(憲吉の碑は文学のこみちコースから少し外れた憲吉の旧居前にあります)

 
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