7月29日(土)に毎年恒例の「おのみち住吉花火まつり」が開催され、13000発の打ち上げ花火やしかけ花火が、夏の尾道の夜空に咲き乱れました。今年は約30万人の見物客が集まったそうです。

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7.おわりに

 三木半左衛門が、多くの方々の協力や支援の下に大寶山(千光寺山)の中腹に建設した「尾道共楽遊園」(千光寺公園)の場所は、天寧寺三重塔の上あたりにありますが、現在では公園として使用されておらず「千光寺旧公園」と呼ばれており、その新しい活用方法について、尾道市民の方々より色々と提案されておられます。歌人の中村憲吉終焉の家もすぐ側にあります。旧公園から眺める瀬戸内海の景色は本当に素晴らしいと思います。美しい景色を眺め、楽しめる市民の憩いの場としての再活用が待たれます。

 なお、千光寺旧公園の入口付近(国道2号線から石段を297段上った位置)に菱形の石碑が建てられております。その石碑は今日もなお三木半左衛門に代わって、天寧寺三重塔を経て、尾道大橋、松永湾を臨む素晴らしい景色を眺め続けております。

 この石碑はいつ誰が建てたのか、調査したものの記録がありませんでしたが、碑文から考えると三木半左衛門が542段の石段をつくった時に建立したものと思われます。しか
し、風化のためか不鮮明な文字があり、十分判読できません。

 公園も石碑も時の経過と共に記録が失われ、忘れられ消えてゆくのでしょうか?

 昭和43年4月12日、三木半左衛門が尾道名誉市民に選定され、その表彰式が開かれた時、その記念式典に遺族として出席された三木幸子さん(三木半左衛門の孫の妻、東京都渋谷区在)は式典終了後、三木半左衛門に関する資料を散逸することなく残しておきたいと考え、取りまとめて、尾道市へ寄贈されております。尾道市教育委員会に残っている当時の受付簿には、そのことが記録されており、現在は尾道市立美術館の倉庫に静かにねむっているようです。

おわり


 最後に本編を取りまとめるにあたり、千光寺多田隆信前住職、元尾道市立図書館員、苅屋田敏治様を始め、各方面の皆様に大変お世話になりました。心より感謝しております。

参考文献
・新修尾道市史 第3巻
・三木半左衛門自叙日記(遺族 三木幸子所有)
・山陽日日新聞 三都新聞 中国新聞
・橋本吉兵衛 「海鶴堂日記」

(樫本慶彦氏の著書「千光寺山頂から尾道の景色を楽しもう! 尾道千光寺公園の開発と三木半左衛門」より)

〜著者プロフィール〜
樫本慶彦。昭和17年広島県尾道市生まれ。尾道市立長江小学校、長江中学校及び広島県立尾道北高等学校を卒業。昭和40年、大阪市立大学経済学部卒業後、広島銀行へ入行。同行尾道支店に2度、通算6年間勤務し、平成7年同行己斐支店支店長を最後に退職。現在は広島市西区横川町の広川(株)に勤務。父母共に尾道市内にて元小学校教員、特に父親は教員退職後、尾道市立図書館長及び尾道市文化財保護委員を勤めていた。

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6.尾道市への寄付

 家業である「三木文明堂」を継いでいた長男・三木半兵衛の死亡で精神的にも経済的にも大きな打撃をうけていた三木半左衛門は、ほぼ完成しつつある尾道共楽遊園を見ながら考えました。それは、桜、梅、藤などの苗木購入代金、肥料代金等に加え、千光寺への地代支払い等の費用が大きな負担となり、このままでは、尾道共楽遊園そのものの完成だけでなく、維持管理すら出来なくなってしまうのではないかと心配したからでした。

 そこで、三木半左衛門は千光寺檀家総代の平田長七、それに当初公園建設について尾道町長と話し合っておりました土屋清三郎の二人と相談の上、「尾道共楽遊園」を尾道市に寄付し、これからの運営管理を尾道市にお願いすることと決めたのでした。

 そして、明治35年6月12日、三木半左衛門、平田長七、土屋清三郎の3名連名により、尾道市へ寄付致しました。その内訳は「明治35年第27号決議書寄付物件受納の件」でみますと
 (1)千光寺共楽園敷地1347坪買入代金 金500円
 (2)千光寺共楽園内在来の樹木の価格  金440円
 (3)千光寺共楽園内の建物の価格     金278円 合計1218円
となっておりました。

 ところが、共楽園敷地1347坪については、千光寺の所有であったことから尾道市、千光寺檀家総代平田長七、そして多田実圓住職が相談の上、翌年の明治36年2月24日、尾道市が公園用地として、買い入れる代わりに直接、千光寺から尾道市へ寄付されることとなり、当初の千光寺共楽園敷地購入代金500円の寄付については、三木半左衛門、平田長七、土屋清三郎の3名が連名にて「寄付物件取消の申請(明治36年第1号決議書)」をしております。

 そして新たに千光寺の住職を兼務しておりました西国寺42世多田実圓住職、檀家総代平田長七等4名の連名にて、千光寺共楽園敷地1347坪が尾道市へ寄付されたのでした。(明治36年第2号決議書「寄付物件受納の件」)

 尾道市へ寄付された「尾道共楽遊園」は、その後、尾道市により整備され、公園として完成したのは、さらに2年後の明治38年10月でありました。

 千光寺山の「尾道共楽遊園」の開発・建設や石段作りに貢献した三木半左衛門は、明治45年1月23日「尾道共楽遊園」のすぐ側の千光寺毘沙門堂下の住居で惜しまれつつ78歳の生涯を閉じております。墓所は千光寺にあり、大きな自然石に「厳松院穀山仙寿居士」と刻まれております。

 その後、「尾道共楽遊園」は「千光寺公園」と名前を変えましたが、三木半左衛門の願っておりました通り、尾道の市中の人々の集まる場所として利用され続けており、大正4年4月中国実業遊覧案内社より発刊された「尾道案内」では次の様に「千光寺公園」の隆盛が述べられております。

 「千光寺公園は、これ共楽園と称し、総坪数1347坪を有する天然の形勝を加えるに、池をうがち、魚を放ち、庭をつくり、茶寮を設け、花樹を植え、草花をまき、その多幾多の人工を施し、春の桜桃、夏の緑陰、秋の紅葉、冬の雪景、いずれも画趣ならざるが中において、陽春3月、桜樹数百株、満山これ花かととまどう共楽園の夜桜は、花下に宴飲歌舞するも幾百千、弦歌洋々として湧くところ、行楽の土女織るが如く、542段燈道は、人をもって埋められ、すこぶる雑踏壮観を極め、付近に料亭、貸席、喫茶店等を営むもの少なからず」

 またこうした三木半左衛門の功績をたたえるため、昭和13年6月7日、千光寺公園において、尾道観光協会の主催により「千光寺公園開拓者、三木半左衛門翁追悼讃迎法会」が盛大に取り行われ、僧侶20名来賓150余名が出席されました。この時、尾道観光協会では観光都市尾道建設の祖三木半左衛門翁の偉業が世に取り出ぬまま埋もれているのを残念に思い、翁の偉業を偲び、讃えると共に天下に周知せしめることを目的に取り行ったとの記録がなされております。(中国新聞)

(樫本慶彦氏の著書「千光寺山頂から尾道の景色を楽しもう! 尾道千光寺公園の開発と三木半左衛門」より)

〜著者プロフィール〜
樫本慶彦。昭和17年広島県尾道市生まれ。尾道市立長江小学校、長江中学校及び広島県立尾道北高等学校を卒業。昭和40年、大阪市立大学経済学部卒業後、広島銀行へ入行。同行尾道支店に2度、通算6年間勤務し、平成7年同行己斐支店支店長を最後に退職。現在は広島市西区横川町の広川(株)に勤務。父母共に尾道市内にて元小学校教員、特に父親は教員退職後、尾道市立図書館長及び尾道市文化財保護委員を勤めていた。

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5.尾道市制施工後の公園工事

 明治31年4月1日、尾道町に市制が施工され、新しく杉山新十郎市長が誕生いたしました。杉山市長は、他県の役人を得て任命された官選市長でありましたが、尾道町の横山町長よりの引き継ぎがあったためか、あるいは、着任早々にその必要性を理解されたためか、着任後初めての予算市会における施政方針演説において「陸にありては道路改修、千光寺に公園新設、海にありては浚設、山にありては砂防工事・・・」と重点施策の一つとして、千光寺公園の新設を述べられています。

 しかし、尾道市として、具体的にどうするという施策はまだ何もなく、三木半左衛門は従来通り、コツコツと公園工事にまた寄付金集めにと努力をしておりました。

 三木半左衛門は、大阪の山口玄洞翁(尾道市名誉市民)にも尾道共楽遊園建設のため、多額の寄付をお願いしておりましたが、山口玄洞翁は「尾道共楽遊園は、尾道市全体で共有すべきものである。従って、今尾道におられる皆さんが寄付されるべきで大阪にいる私が尾道の名家である橋本さんや天野さんより多くの金額の寄付はできない。」と言われましたが、それでも相当額の寄付を頂いております。しかし、寄付金の集りが悪いため、少しでも山口玄洞翁に追加して寄付をお願いしようと考え、尾道共楽遊園ではなく、千光寺石段づくりへの寄付金として新しく寄付してほしい旨、知人を通じて依頼しておりましたが、連絡が不十分で結局追加寄付は実現しませんでした。

 こうして尾道での寄付金募集が思う程に進まない状況の下でも三木半左衛門は、公園工事を進めておりましたので、寄付金収入以上に工事費、樹木費等の出費がかさみ、明治32年には結局1350円を超える借金が残ってしまいました。

 そこで、三木半左衛門は止むなく自分の出身地である徳島県にいる姉や親族から、尾道のための公共事業を自分がやっているので協力してほしいと依頼し借り入れたり、また家業を継いでいた長男の三木半兵衛の協力の下で私財を投入し、1350円を超える借金は全て支払うことができました。

 一方、三木半左衛門は檀家として千光寺への信心が厚く、一人でも多くの人達が千光寺に参拝し、また頂上からの尾道の景勝を喜んでもらいたいと願い、千光寺への石段づくりにも取り組んでおりましたが、明治32年6月、石段542段の完成と同時に尾道市へ寄付することとし、「道路改修繕費」として375円を計上し、寄付しております。

 ところが、長男で「三木文明堂」を経営していた三木半兵衛が、明治32年頃から体調を崩し、病気療養をしておりましたが、明治34年5月、肺病のため、ついに亡くなってしまいました。

 三木半左衛門は大変失望しました。家督はまだ幼い末子の三木源三郎に譲り、自分は今まで通り、コツコツと尾道共楽遊園の完成をめざして頑張っておりました。

(樫本慶彦氏の著書「千光寺山頂から尾道の景色を楽しもう! 尾道千光寺公園の開発と三木半左衛門」より)

〜著者プロフィール〜
樫本慶彦。昭和17年広島県尾道市生まれ。尾道市立長江小学校、長江中学校及び広島県立尾道北高等学校を卒業。昭和40年、大阪市立大学経済学部卒業後、広島銀行へ入行。同行尾道支店に2度、通算6年間勤務し、平成7年同行己斐支店支店長を最後に退職。現在は広島市西区横川町の広川(株)に勤務。父母共に尾道市内にて元小学校教員、特に父親は教員退職後、尾道市立図書館長及び尾道市文化財保護委員を勤めていた。

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 この頃、尾道町においては祇園神社のチャンギリ寄付、西国寺の敷石工事への寄付、持光寺金毘羅堂への寄付募集など数多くの寄付金集めが競争のように行われており、三木半左衛門の苦労は大変なものでありました。

 そうした中、明治29年、尾道町の横山亮一町長より、三木半左衛門に対し、尾道町から1250円寄付するので公園建設の工事をさらに進めてほしいとの申し入れがありました。

 尾道町では、この時、千光寺、西国寺、艮神社、八幡神社などの宝物古物展覧会を開催する企画があり、そのため2500円を目標として、町をあげて寄付金の募集をすることを横山町長は計画していたのでした。そして集めた寄付金の半額を千光寺公園づくりに使おうというのが横山町長の考えだったのです。

 三木半左衛門は尾道町長からの寄付申し入れに大変喜び、石段の整備や公園づくり工事のピッチをあげることと致しました。そして、この頃、公園を「尾道共楽遊園」と命名し、藤棚をつくり、桜の木を植えるなどにより、公園の型がかなり出来てまいりました。

 ところが、しばらくして横山町長より、2500円集める予定の寄付が700円しか集まらず、大変申し訳ないが、共楽遊園地工事への寄付は出来なくなったとの連絡がなされました。

 びっくりした三木半左衛門は、必死に横山町長へ請願しましたが、結局、当初予定の1割程度の金額しか、寄付金をもらうことができませんでした。

 総額1250円の予定で、工事を始めており、またここで三木半左衛門は1000円以上の借金を背負ってしまったのでした。

 そこで当初の発起人、世話人の中でただ一人残って、積極的に協力してくれておりました壬生萬蔵氏と二人で尾道町を歩きまわって寄付金を集めることと致しました。

 こうして朝6時より、公園の工事現場で職工さん達と一緒に働き、夜は寄付帳をもって町内で寄付集めをするという生活が明治31年年末まで続いたのでした。

 三木半左衛門のこうした努力に対し、当初発起人、世話人として名を連ねた橋本吉次郎,平田長七を始め尾道町内の多くの人達から、相当の寄付金の協力がなされておりました。

 この頃、三木半左衛門は、寄付金を依頼するのに際し、「大寶山尾道共楽遊園事務所」という名前で広く町民に依頼しており、「大寶山尾道共楽遊園地」と明記された領収書を発行するなど、厳格な仕振りでもって、寄付金の募集を進めておりました。

(樫本慶彦氏の著書「千光寺山頂から尾道の景色を楽しもう! 尾道千光寺公園の開発と三木半左衛門」より)

〜著者プロフィール〜
樫本慶彦。昭和17年広島県尾道市生まれ。尾道市立長江小学校、長江中学校及び広島県立尾道北高等学校を卒業。昭和40年、大阪市立大学経済学部卒業後、広島銀行へ入行。同行尾道支店に2度、通算6年間勤務し、平成7年同行己斐支店支店長を最後に退職。現在は広島市西区横川町の広川(株)に勤務。父母共に尾道市内にて元小学校教員、特に父親は教員退職後、尾道市立図書館長及び尾道市文化財保護委員を勤めていた。

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4.千光寺公園の開発工事

 千光寺における囲碁の会で、三木半左衛門の提案が参加者の方々の賛同を得たことから、一同を代表し、尾道町内で手広く酒類販売を営んでいた土屋清三郎が当時の尾道町熊谷孝平町長に、千光寺公園の開発について相談したところ、尾道町長から「それは、尾道町にも尾道町民にとっても大変良いことだ。是非、実現してほしい。」との賛意を得たのでした。
 
 そこで囲碁の会のメンバーは、何度も集まって協議した結果、尾道町の豪商であった橋本吉次郎、同じく土屋清三郎、千光寺の檀家総代の平田長七、提案者の三木半左衛門等9名を発起人として選出致しました。さらに世話係を壬生萬蔵氏等7名にお願いすることと致しました。
 
 工事には当然のことながら、お金が必要であります。その為に発起人を中心に相談した結果、寄付金を集め、そのお金で工事を行なうこととし、発起人9名、世話人7名が連記して広く寄付金を集めることとなりました。一方、工事をすすめる体制を次の通り決めました。

・全体を取り締まる総裁 橋本吉次郎
・工事担当の総裁 土屋清三郎
・工事担当   三木半左衛門、平田長七
・会計取まとめ者 中尾彦助
・会計担当 石橋興兵衛、倉田栄助

 そしていよいよ明治27年4月より工事に着手致しました。
具体的にはまず、(1)千光寺赤堂下の石玉垣の修理、(2)千光寺にお参りするための石段づくり、(3)千光寺の中腹あたりを削って広場をつくり、公園とする工事に取りかかったのでした。

 しかし、残念なことに明治27年7月、日清戦争が始まったことから工事に従事してくれていた職工達の大半が兵隊に行くこととなってしまい、止むなく工事を中断せざるを得なくなったのでした。
 
 そのため寄付金を集めることも、すぐ中止してしまったため、1円の寄付金もまだ集まっておらず、結果として数ヶ月間の途中までの工事代金350円が未払いの借金として残っ
てしまいました。
 
 そこで発起人9名が集まって相談し、各々一人ずつが38円(350/9=38円)ずつ出そうではないかと話し合いましたが、発起人であっても金までは出せないという意見もあっ
て、結局、話はまとまりませんでした。
 
 しかし、工事代金は支払わなければなりません。三木半左衛門は、止むを得ず一人で金策し、お盆の8月14日、全額支払ったのでした。

 三木半左衛門は、このような発起人の皆さんの事情を考えると千光寺公園や石段を完成させるためには、これからは自分が中心になって押し進めざるを得ないと悟り、一人でコツコツ寄付の募集と工事を進めておりました。

(樫本慶彦氏の著書「千光寺山頂から尾道の景色を楽しもう! 尾道千光寺公園の開発と三木半左衛門」より)

〜著者プロフィール〜
樫本慶彦。昭和17年広島県尾道市生まれ。尾道市立長江小学校、長江中学校及び広島県立尾道北高等学校を卒業。昭和40年、大阪市立大学経済学部卒業後、広島銀行へ入行。同行尾道支店に2度、通算6年間勤務し、平成7年同行己斐支店支店長を最後に退職。現在は広島市西区横川町の広川(株)に勤務。父母共に尾道市内にて元小学校教員、特に父親は教員退職後、尾道市立図書館長及び尾道市文化財保護委員を勤めていた。

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3.三木半左衛門

 千光寺での囲碁の会合で、こうした提案をした三木半左衛門とはどんな人物だったのでしょうか。

 三木半左衛門は、天保5年(1834年)阿波国三好郡毛田村(徳島県三好郡三加茂町毛田)の豪農三木房助の長男として生まれましたが、幼時より数学や商い事が好きで農業にあきたらず、19才の時、家を飛び出し、近くの脇町で手広く反物卸を商売しておりました河内屋忠兵衛の下で修行した後、22才で独立し、阿波染地卸売を開業しております。そして、四国地方だけでなく、山口県、広島県へも販路を広げ、尾道へも阿波特産の藍染物の販売を行なうために度々、来ておりましたが、「尾道は住み易く、商売繁昌の町で将来まだまだ伸びるし、落ち着いて商売をするなら尾道で。」と考え、尾道市土堂町に居をかまえ、藍染等の呉服の商いを始めることとしたのでした。

 一方、三木半左衛門は呉服商を営むかたわら、複雑な藩札の価値、相場の動き等について一生懸命勉強しておりました。尾道は当時、西廻航路の発達により、国内各藩を相手とする商業都市に大きく成長しており、町内に各藩の発行する藩札の両替を営む者が多ければ多い程、商品の流通がより円滑にはかどることから、自然に両替を営む者が多くなっておりました。

 三木半左衛門は独力で藩札の価値と相場の動きを調査・研究することにより、明治時代初頭、藩札から新円切り替え時に両替業務によって、大きな利益をあげ、広島へも支店を開くことができたのです。特に三木半左衛門は、「尾道」という町と名前が大変好きになっておりましたので、当時広島市の中にあった「尾道町」(広島市中区大手町2−3丁目)に支店をつくり、時には自分も居住し、商売もしておりました。

 その頃、親しくしていた広島県庁の役人の勧めもあり、これからは学問が重要であり、書籍を扱う商売こそ将来性があると考えた三木半左衛門は、新しく書籍販売の「三木文明堂」を尾道市土堂町にて開業し、広く尾道の人々に読書をすすめておりました。

 「三木文明堂」は、三木半左衛門の長男である三木半兵衛が主に担当し経営しておりました。三木半兵衛は、書籍の販売だけでなく、新聞の発行や地元情報を記載した書籍(深安沼隈安那郡、明治孝義鑑」尾道市立図書館蔵)の発行まで幅広く取り扱っておりました。

 また、明治21年大阪朝日新聞、大阪毎日新聞の発刊に際し、備後地方の新聞販売店を統括する大売捌店の指定を受けるなど当時としては、父子共々に文化人でありました。

 明治26年、三木半左衛門は60才の還暦を機に諸国巡礼の旅に出かけることとし、岐阜、長野善光寺から、日光、東北羽黒山そして越中・越後・越前から近江へと広く巡礼参詣の旅を続けておりました。こうした旅の中で三木半左衛門は「尾道の景観の素晴らしさこそ日本一である。この景色を多くの人が楽しめるようにしたいものだ。」という気持ちを強く持って、尾道に帰って来たのでした。

 特に三木半左衛門は、千光寺から眺める瀬戸内海の素晴らしい景色が好きで、頼山陽の「瀬戸内海を望む」の詩にも大変強く刺激を受けておりましたので、町の人々の憩いの場として行楽の場として、また旅人の休める場所としての公園が景色のよく見える千光寺山の一画に是非共必要と考えての提案でありました。


明治38年頃、自分のお墓の前に立つ三木半左衛門

(樫本慶彦氏の著書「千光寺山頂から尾道の景色を楽しもう! 尾道千光寺公園の開発と三木半左衛門」より)

〜著者プロフィール〜
樫本慶彦。昭和17年広島県尾道市生まれ。尾道市立長江小学校、長江中学校及び広島県立尾道北高等学校を卒業。昭和40年、大阪市立大学経済学部卒業後、広島銀行へ入行。同行尾道支店に2度、通算6年間勤務し、平成7年同行己斐支店支店長を最後に退職。現在は広島市西区横川町の広川(株)に勤務。父母共に尾道市内にて元小学校教員、特に父親は教員退職後、尾道市立図書館長及び尾道市文化財保護委員を勤めていた。

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