この頃、尾道町においては祇園神社のチャンギリ寄付、西国寺の敷石工事への寄付、持光寺金毘羅堂への寄付募集など数多くの寄付金集めが競争のように行われており、三木半左衛門の苦労は大変なものでありました。

 そうした中、明治29年、尾道町の横山亮一町長より、三木半左衛門に対し、尾道町から1250円寄付するので公園建設の工事をさらに進めてほしいとの申し入れがありました。

 尾道町では、この時、千光寺、西国寺、艮神社、八幡神社などの宝物古物展覧会を開催する企画があり、そのため2500円を目標として、町をあげて寄付金の募集をすることを横山町長は計画していたのでした。そして集めた寄付金の半額を千光寺公園づくりに使おうというのが横山町長の考えだったのです。

 三木半左衛門は尾道町長からの寄付申し入れに大変喜び、石段の整備や公園づくり工事のピッチをあげることと致しました。そして、この頃、公園を「尾道共楽遊園」と命名し、藤棚をつくり、桜の木を植えるなどにより、公園の型がかなり出来てまいりました。

 ところが、しばらくして横山町長より、2500円集める予定の寄付が700円しか集まらず、大変申し訳ないが、共楽遊園地工事への寄付は出来なくなったとの連絡がなされました。

 びっくりした三木半左衛門は、必死に横山町長へ請願しましたが、結局、当初予定の1割程度の金額しか、寄付金をもらうことができませんでした。

 総額1250円の予定で、工事を始めており、またここで三木半左衛門は1000円以上の借金を背負ってしまったのでした。

 そこで当初の発起人、世話人の中でただ一人残って、積極的に協力してくれておりました壬生萬蔵氏と二人で尾道町を歩きまわって寄付金を集めることと致しました。

 こうして朝6時より、公園の工事現場で職工さん達と一緒に働き、夜は寄付帳をもって町内で寄付集めをするという生活が明治31年年末まで続いたのでした。

 三木半左衛門のこうした努力に対し、当初発起人、世話人として名を連ねた橋本吉次郎,平田長七を始め尾道町内の多くの人達から、相当の寄付金の協力がなされておりました。

 この頃、三木半左衛門は、寄付金を依頼するのに際し、「大寶山尾道共楽遊園事務所」という名前で広く町民に依頼しており、「大寶山尾道共楽遊園地」と明記された領収書を発行するなど、厳格な仕振りでもって、寄付金の募集を進めておりました。

(樫本慶彦氏の著書「千光寺山頂から尾道の景色を楽しもう! 尾道千光寺公園の開発と三木半左衛門」より)

〜著者プロフィール〜
樫本慶彦。昭和17年広島県尾道市生まれ。尾道市立長江小学校、長江中学校及び広島県立尾道北高等学校を卒業。昭和40年、大阪市立大学経済学部卒業後、広島銀行へ入行。同行尾道支店に2度、通算6年間勤務し、平成7年同行己斐支店支店長を最後に退職。現在は広島市西区横川町の広川(株)に勤務。父母共に尾道市内にて元小学校教員、特に父親は教員退職後、尾道市立図書館長及び尾道市文化財保護委員を勤めていた。

千光寺山荘ホームページ

 
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