2.千光寺公園開発の提案

 明治時代初頭、尾道大寶山にある千光寺は、西国寺の末寺として、永い間、無住の状態が続いていたため、荒廃しておりましたが、明治6年、西国寺のお坊さんで高野山でずっと修行されていた多田実圓という僧侶が新しく、千光寺の住職として着任されました。

 多田実圓住職は香川県の人で淡白洒脱、しかも寛容慈徳であったと言われ、その徳をしたって集まる人も多く、これまで住職の居られない時にも、お寺を守ってきた千光寺檀家の人達は大変喜んでおりました。

 ところがわずか5年後の明治11年、多田実圓住職は請われて、西国寺第42世住職に就任され、千光寺は再び、無住のお寺となってしまいました。しかし、多田実圓住職は西国寺の住職に就任の後も、西国寺の末寺である千光寺の住職をも兼務の型で勤められており、千光寺檀家の人々は総代の平田長七を中心に引き続いてお寺を守っておりました。

 そうした中、千光寺では檀家の人達を中心に時々、囲碁の会合が開かれておりました。

 明治27年3月17日、いつものように千光寺で開かれた囲碁の会において檀家の一人である三木半左衛門が次のような提案をしました。

「昨年、私は関東、東北から近畿地方に至る名所、旧蹟を遊覧してきたが、どこと比較しても、ここ尾道の千光寺から眺める景色程、良い処はなく、ここが日本一だと感じた。できるだけ多くの人達に千光寺へお参りしてもらい、そしてこの景色を楽しんでもらいたいと思った。しかし、現在のように荒れ廃れたままではそれもできず、また眺める場所もない。尾道の町全体の不名誉だと思う。ついてはここにおられる我々が発起して石段をつくり、お寺の修繕もし、そして誰でもが遊び、尾道のすばらしい景色を眺めることのできる場所をつくろうではないか。」

 囲碁の会に出席していた全員が「それは良い。」と賛同されました。

 尾道の風景のすばらしさについては、明治時代中頃までは頼山陽を始めとする文化人達こそは、千光寺山頂上より眺める景色のすばらしさに気付き、遊学の歩をすすめ、その景勝を誉め称えておりますが、地元の人々は、なお麓から眺める千光寺山の美しさや尾道水道の風景に満足していたのです。また、千光寺へ上る参道は、細く曲がりくねった農道で老人、子供には大変登りにくい道でもありました。

(注)明治時代中頃まで麓から千光寺へ登る道は
(1)土堂町の寺小路(村上病院の西横、通称ゴットン小路)から登る道
(2)艮神社の横から登る道
(3)善称寺横の小路から登る道
(4)土堂小学校の横から登って、屋根伝いに行く道
などがありましたが、いずれも狭く曲がりくねった道でした。
旧後地村附尾道村 (芸藩通志所載)江戸時代後半の尾道町部分



三木半左衛門の提案は、千光寺山麓から眺める尾道の景観をさらに高め、千光寺山頂からの美に酔う時代を開くと共に広く尾道町の人々に憩いの場所を提供しようとしたものでした。

(樫本慶彦氏の著書「千光寺山頂から尾道の景色を楽しもう! 尾道千光寺公園の開発と三木半左衛門」より)

〜著者プロフィール〜
樫本慶彦。昭和17年広島県尾道市生まれ。尾道市立長江小学校、長江中学校及び広島県立尾道北高等学校を卒業。昭和40年、大阪市立大学経済学部卒業後、広島銀行へ入行。同行尾道支店に2度、通算6年間勤務し、平成7年同行己斐支店支店長を最後に退職。現在は広島市西区横川町の広川(株)に勤務。父母共に尾道市内にて元小学校教員、特に父親は教員退職後、尾道市立図書館長及び尾道市文化財保護委員を勤めていた。

千光寺山荘ホームページ

 
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