3.三木半左衛門

 千光寺での囲碁の会合で、こうした提案をした三木半左衛門とはどんな人物だったのでしょうか。

 三木半左衛門は、天保5年(1834年)阿波国三好郡毛田村(徳島県三好郡三加茂町毛田)の豪農三木房助の長男として生まれましたが、幼時より数学や商い事が好きで農業にあきたらず、19才の時、家を飛び出し、近くの脇町で手広く反物卸を商売しておりました河内屋忠兵衛の下で修行した後、22才で独立し、阿波染地卸売を開業しております。そして、四国地方だけでなく、山口県、広島県へも販路を広げ、尾道へも阿波特産の藍染物の販売を行なうために度々、来ておりましたが、「尾道は住み易く、商売繁昌の町で将来まだまだ伸びるし、落ち着いて商売をするなら尾道で。」と考え、尾道市土堂町に居をかまえ、藍染等の呉服の商いを始めることとしたのでした。

 一方、三木半左衛門は呉服商を営むかたわら、複雑な藩札の価値、相場の動き等について一生懸命勉強しておりました。尾道は当時、西廻航路の発達により、国内各藩を相手とする商業都市に大きく成長しており、町内に各藩の発行する藩札の両替を営む者が多ければ多い程、商品の流通がより円滑にはかどることから、自然に両替を営む者が多くなっておりました。

 三木半左衛門は独力で藩札の価値と相場の動きを調査・研究することにより、明治時代初頭、藩札から新円切り替え時に両替業務によって、大きな利益をあげ、広島へも支店を開くことができたのです。特に三木半左衛門は、「尾道」という町と名前が大変好きになっておりましたので、当時広島市の中にあった「尾道町」(広島市中区大手町2−3丁目)に支店をつくり、時には自分も居住し、商売もしておりました。

 その頃、親しくしていた広島県庁の役人の勧めもあり、これからは学問が重要であり、書籍を扱う商売こそ将来性があると考えた三木半左衛門は、新しく書籍販売の「三木文明堂」を尾道市土堂町にて開業し、広く尾道の人々に読書をすすめておりました。

 「三木文明堂」は、三木半左衛門の長男である三木半兵衛が主に担当し経営しておりました。三木半兵衛は、書籍の販売だけでなく、新聞の発行や地元情報を記載した書籍(深安沼隈安那郡、明治孝義鑑」尾道市立図書館蔵)の発行まで幅広く取り扱っておりました。

 また、明治21年大阪朝日新聞、大阪毎日新聞の発刊に際し、備後地方の新聞販売店を統括する大売捌店の指定を受けるなど当時としては、父子共々に文化人でありました。

 明治26年、三木半左衛門は60才の還暦を機に諸国巡礼の旅に出かけることとし、岐阜、長野善光寺から、日光、東北羽黒山そして越中・越後・越前から近江へと広く巡礼参詣の旅を続けておりました。こうした旅の中で三木半左衛門は「尾道の景観の素晴らしさこそ日本一である。この景色を多くの人が楽しめるようにしたいものだ。」という気持ちを強く持って、尾道に帰って来たのでした。

 特に三木半左衛門は、千光寺から眺める瀬戸内海の素晴らしい景色が好きで、頼山陽の「瀬戸内海を望む」の詩にも大変強く刺激を受けておりましたので、町の人々の憩いの場として行楽の場として、また旅人の休める場所としての公園が景色のよく見える千光寺山の一画に是非共必要と考えての提案でありました。


明治38年頃、自分のお墓の前に立つ三木半左衛門

(樫本慶彦氏の著書「千光寺山頂から尾道の景色を楽しもう! 尾道千光寺公園の開発と三木半左衛門」より)

〜著者プロフィール〜
樫本慶彦。昭和17年広島県尾道市生まれ。尾道市立長江小学校、長江中学校及び広島県立尾道北高等学校を卒業。昭和40年、大阪市立大学経済学部卒業後、広島銀行へ入行。同行尾道支店に2度、通算6年間勤務し、平成7年同行己斐支店支店長を最後に退職。現在は広島市西区横川町の広川(株)に勤務。父母共に尾道市内にて元小学校教員、特に父親は教員退職後、尾道市立図書館長及び尾道市文化財保護委員を勤めていた。

千光寺山荘ホームページ

 
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