5.尾道市制施工後の公園工事

 明治31年4月1日、尾道町に市制が施工され、新しく杉山新十郎市長が誕生いたしました。杉山市長は、他県の役人を得て任命された官選市長でありましたが、尾道町の横山町長よりの引き継ぎがあったためか、あるいは、着任早々にその必要性を理解されたためか、着任後初めての予算市会における施政方針演説において「陸にありては道路改修、千光寺に公園新設、海にありては浚設、山にありては砂防工事・・・」と重点施策の一つとして、千光寺公園の新設を述べられています。

 しかし、尾道市として、具体的にどうするという施策はまだ何もなく、三木半左衛門は従来通り、コツコツと公園工事にまた寄付金集めにと努力をしておりました。

 三木半左衛門は、大阪の山口玄洞翁(尾道市名誉市民)にも尾道共楽遊園建設のため、多額の寄付をお願いしておりましたが、山口玄洞翁は「尾道共楽遊園は、尾道市全体で共有すべきものである。従って、今尾道におられる皆さんが寄付されるべきで大阪にいる私が尾道の名家である橋本さんや天野さんより多くの金額の寄付はできない。」と言われましたが、それでも相当額の寄付を頂いております。しかし、寄付金の集りが悪いため、少しでも山口玄洞翁に追加して寄付をお願いしようと考え、尾道共楽遊園ではなく、千光寺石段づくりへの寄付金として新しく寄付してほしい旨、知人を通じて依頼しておりましたが、連絡が不十分で結局追加寄付は実現しませんでした。

 こうして尾道での寄付金募集が思う程に進まない状況の下でも三木半左衛門は、公園工事を進めておりましたので、寄付金収入以上に工事費、樹木費等の出費がかさみ、明治32年には結局1350円を超える借金が残ってしまいました。

 そこで、三木半左衛門は止むなく自分の出身地である徳島県にいる姉や親族から、尾道のための公共事業を自分がやっているので協力してほしいと依頼し借り入れたり、また家業を継いでいた長男の三木半兵衛の協力の下で私財を投入し、1350円を超える借金は全て支払うことができました。

 一方、三木半左衛門は檀家として千光寺への信心が厚く、一人でも多くの人達が千光寺に参拝し、また頂上からの尾道の景勝を喜んでもらいたいと願い、千光寺への石段づくりにも取り組んでおりましたが、明治32年6月、石段542段の完成と同時に尾道市へ寄付することとし、「道路改修繕費」として375円を計上し、寄付しております。

 ところが、長男で「三木文明堂」を経営していた三木半兵衛が、明治32年頃から体調を崩し、病気療養をしておりましたが、明治34年5月、肺病のため、ついに亡くなってしまいました。

 三木半左衛門は大変失望しました。家督はまだ幼い末子の三木源三郎に譲り、自分は今まで通り、コツコツと尾道共楽遊園の完成をめざして頑張っておりました。

(樫本慶彦氏の著書「千光寺山頂から尾道の景色を楽しもう! 尾道千光寺公園の開発と三木半左衛門」より)

〜著者プロフィール〜
樫本慶彦。昭和17年広島県尾道市生まれ。尾道市立長江小学校、長江中学校及び広島県立尾道北高等学校を卒業。昭和40年、大阪市立大学経済学部卒業後、広島銀行へ入行。同行尾道支店に2度、通算6年間勤務し、平成7年同行己斐支店支店長を最後に退職。現在は広島市西区横川町の広川(株)に勤務。父母共に尾道市内にて元小学校教員、特に父親は教員退職後、尾道市立図書館長及び尾道市文化財保護委員を勤めていた。

千光寺山荘ホームページ

 
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