6.尾道市への寄付

 家業である「三木文明堂」を継いでいた長男・三木半兵衛の死亡で精神的にも経済的にも大きな打撃をうけていた三木半左衛門は、ほぼ完成しつつある尾道共楽遊園を見ながら考えました。それは、桜、梅、藤などの苗木購入代金、肥料代金等に加え、千光寺への地代支払い等の費用が大きな負担となり、このままでは、尾道共楽遊園そのものの完成だけでなく、維持管理すら出来なくなってしまうのではないかと心配したからでした。

 そこで、三木半左衛門は千光寺檀家総代の平田長七、それに当初公園建設について尾道町長と話し合っておりました土屋清三郎の二人と相談の上、「尾道共楽遊園」を尾道市に寄付し、これからの運営管理を尾道市にお願いすることと決めたのでした。

 そして、明治35年6月12日、三木半左衛門、平田長七、土屋清三郎の3名連名により、尾道市へ寄付致しました。その内訳は「明治35年第27号決議書寄付物件受納の件」でみますと
 (1)千光寺共楽園敷地1347坪買入代金 金500円
 (2)千光寺共楽園内在来の樹木の価格  金440円
 (3)千光寺共楽園内の建物の価格     金278円 合計1218円
となっておりました。

 ところが、共楽園敷地1347坪については、千光寺の所有であったことから尾道市、千光寺檀家総代平田長七、そして多田実圓住職が相談の上、翌年の明治36年2月24日、尾道市が公園用地として、買い入れる代わりに直接、千光寺から尾道市へ寄付されることとなり、当初の千光寺共楽園敷地購入代金500円の寄付については、三木半左衛門、平田長七、土屋清三郎の3名が連名にて「寄付物件取消の申請(明治36年第1号決議書)」をしております。

 そして新たに千光寺の住職を兼務しておりました西国寺42世多田実圓住職、檀家総代平田長七等4名の連名にて、千光寺共楽園敷地1347坪が尾道市へ寄付されたのでした。(明治36年第2号決議書「寄付物件受納の件」)

 尾道市へ寄付された「尾道共楽遊園」は、その後、尾道市により整備され、公園として完成したのは、さらに2年後の明治38年10月でありました。

 千光寺山の「尾道共楽遊園」の開発・建設や石段作りに貢献した三木半左衛門は、明治45年1月23日「尾道共楽遊園」のすぐ側の千光寺毘沙門堂下の住居で惜しまれつつ78歳の生涯を閉じております。墓所は千光寺にあり、大きな自然石に「厳松院穀山仙寿居士」と刻まれております。

 その後、「尾道共楽遊園」は「千光寺公園」と名前を変えましたが、三木半左衛門の願っておりました通り、尾道の市中の人々の集まる場所として利用され続けており、大正4年4月中国実業遊覧案内社より発刊された「尾道案内」では次の様に「千光寺公園」の隆盛が述べられております。

 「千光寺公園は、これ共楽園と称し、総坪数1347坪を有する天然の形勝を加えるに、池をうがち、魚を放ち、庭をつくり、茶寮を設け、花樹を植え、草花をまき、その多幾多の人工を施し、春の桜桃、夏の緑陰、秋の紅葉、冬の雪景、いずれも画趣ならざるが中において、陽春3月、桜樹数百株、満山これ花かととまどう共楽園の夜桜は、花下に宴飲歌舞するも幾百千、弦歌洋々として湧くところ、行楽の土女織るが如く、542段燈道は、人をもって埋められ、すこぶる雑踏壮観を極め、付近に料亭、貸席、喫茶店等を営むもの少なからず」

 またこうした三木半左衛門の功績をたたえるため、昭和13年6月7日、千光寺公園において、尾道観光協会の主催により「千光寺公園開拓者、三木半左衛門翁追悼讃迎法会」が盛大に取り行われ、僧侶20名来賓150余名が出席されました。この時、尾道観光協会では観光都市尾道建設の祖三木半左衛門翁の偉業が世に取り出ぬまま埋もれているのを残念に思い、翁の偉業を偲び、讃えると共に天下に周知せしめることを目的に取り行ったとの記録がなされております。(中国新聞)

(樫本慶彦氏の著書「千光寺山頂から尾道の景色を楽しもう! 尾道千光寺公園の開発と三木半左衛門」より)

〜著者プロフィール〜
樫本慶彦。昭和17年広島県尾道市生まれ。尾道市立長江小学校、長江中学校及び広島県立尾道北高等学校を卒業。昭和40年、大阪市立大学経済学部卒業後、広島銀行へ入行。同行尾道支店に2度、通算6年間勤務し、平成7年同行己斐支店支店長を最後に退職。現在は広島市西区横川町の広川(株)に勤務。父母共に尾道市内にて元小学校教員、特に父親は教員退職後、尾道市立図書館長及び尾道市文化財保護委員を勤めていた。

千光寺山荘ホームページ

 
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